目黒の入り組んだ住宅地での水道工事の現場。俺の任務は、工事現場から少し離れた車両2台がやっと擦れ違える狭い道で、路上駐車したダンプの前後にコーンとバーを設置し、また枝道からの車両を捌くことだった。
ダンプの運転手が近づいてくる。 その男は、こちらを人間として見てはいなかった。手首をぞんざいに振る、顎で指図する。家畜を追うようなその合図は、「コーンをどかせ」という傲慢な命令だった。
男が車両に歩み寄った際、俺は辛うじて残っていた職業意識で「出ますか?」と声をかけた。 だが、返ってきたのは、言葉ですらない礫(つぶて)だった。
「バック」
センテンスですらない。単語を放り投げられただけだ。そこには、人間に向けるべき響きなど微塵もなかった。感情を削ぎ落としたその一言は、俺という存在を背景の一部として処理する「合図」に過ぎない。俺の尊厳を泥で塗りつぶすような、無機質な拒絶。腹の底に、逃げ場のない屈辱が溜まっていく。
相勤のY氏(就活中)が言った。
「警備員は底辺職だと思っているんだ。工事屋には、そういう奴もいるんだよ」
それがこの世界の真実だと言わんばかりの諦念。そういうもんなんだ、よくあることだ、と思わなければ、この場所には立っていられない。
そんな理不尽な泥濘(でいねい)の中を、腰の曲がった老婆が手押し車を押しながらゆっくりと坂を下りてくるのが見えた。 「坂道、たいへんだね。買い物に行くの?」 俺の口から出たのは、何の計算もない、あまりにも自然な気遣いだった。
老婆と過ごした数分間。
「あの白いきれいな花はなんですか?」
他人の庭に規律正しく空を見上げて高い枝先に咲いている白い花を指して聞いた。
「あれはね……ハクモクレンよ」
と穏やかな返答。「ピンクのもあるのよ」

老婆との会話は、乾ききった心に染み込むようだったが、同時に、残酷なまでの「痛み」を連れてきた。花の名を聞きながら、俺は故郷を思った。 故郷には、自分を産んでくださった方がいる。 ただ、それだけのことなのだ。
だが、その「ただそれだけ」の事実が、逃げようのない絶望で喉元を締め上げる。 そこにあるのは、言葉にしようとすればするほど、泥沼のように深く、暗く、出口のない関係性だけだ。
老婆の優しさに触れれば触れるほど、自分の抱えている「歪み」が浮き彫りになり、胸が千切れるほど苦しくなる。人間らしい会話が、これほどまでに毒として回るとは思わなかった。
老婆の背中を見送り、俺は再び、コーンで囲われたダンプとわき道を交互に見やる任務に戻った。 整理のつかない絶望と、吐き気のするような孤独。 耐えきれず、俺は天を仰いだ。
見上げたら、空は青かった。
俺の絶望など知るよしもない、突き放すような、無情なまでの青さだった。
俺はその青い空に向かって、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「この糞どぉもんが…」

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