港区の再開発地区。そこは、ゴミ一つ落ちていない不気味なほどに清潔な空間だ。巨大な重機が鎮座し、無機質な存在感を放つその場所では、人間の生活臭すらも「汚れ」として排除されている。 周囲には、乾燥した、喉の奥に張り付くような空気が停滞しているだけだ。俺はこのアスファルトの結界の中で、一日中、自動音声のような声で同じ呪文を繰り返している。
「信号がかわります……」
やりがいなんて、とうに摩耗して消えた。これは単なる「防護柵」だ。もし誰かが道路を流れる車に撥ねられ、俺が黙っていたら、その責任の矛先は間違いなく会社や俺に向けられる。自分を守るために、俺は機械の一部として、義務的に喉を鳴らし続ける。
しかし、この現場は想像以上に「人間の業」という澱(おり)を突きつけてくる。俺の声など最初から存在しないかのように、赤信号を平然と渡っていく連中の多さといったらどうだ。
「赤ですよ!」 向かい側の相勤が、ひび割れた声で叫ぶ。
「赤なんで止まってもらっていいですか?!」
剥き出しの苛立ち。それに対し、通行人は一瞥もくれず、ただ無言で通り過ぎる。怒鳴る警備員も、止める俺の制服も、彼らの視界には入っていない。刺々しい反応すら返ってこない、徹底的な「無視」。その光景を見ながら、俺はふと思う。
(……何様だよ、俺)
ほんの少し前まで、警備員の制服を風景の一部として切り捨て、横断歩道の赤信号を無視していたのは俺自身だ。それなのに、制服を着た途端に過去の自分を棚に上げて、管理する側に立とうとする。その滑稽さに気づいたとき、喉元までせり上がっていた苛立ちは、行き場を失って冷たく沈んでいった。
「いい子ちゃん」になるつもりなんて、さらさらない。だが、相勤のように他人に怒鳴り散らし、過去の俺と同じレベルで感情を浪費するのは、あまりに惨めで、耐え難かった。
だから俺は、自分なりの「静かな悪あがき」を始めることにした。どうせ言葉を吐くなら、最高に「冷徹で美しい日本語」で、俺を透明人間として扱うあいつらを無機質に塗りつぶしてやろうと。
「信号がかわります。お気をつけて渡ってください」
慇扃無礼。そう取られても構わない。丁寧な言葉を、俺は「武器」ではなく「防弾チョッキ」として纏った。透明な壁のように俺を透かす奴らに対して、「俺はお前らとは違う、まともな地平に立っている」と思い込むための、孤独な攻撃。
……だが、俺もそこまで完成された人間じゃない。あまりに無謀な横断をかます奴の背中を見送るとき、喉の奥から、留学時代の記憶と一緒に、隠し持っていた異国の毒が漏れ出す。
「シーバル…セッキ ャ…」
誰にも届かない、マイクにも乗らない、俺だけの暗号。
美しい日本語の膜と、その裏側に隠した汚濁。この両極端な二枚舌こそが、崩れ落ちそうな現場で「自分」という輪郭を保つための、唯一の呼吸法だった。
聖人君子? 冗談じゃない。 これは、この空虚なまでに清潔で静かな地獄で、自分だけが内側から腐りゆくのを防ごうとする、あまりに必死で、救いのない悪あがきに過ぎない。

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