【矜持】待つのも仕事。現場という名の「空白」

現場近くの品川区立やまなか公園。遊具が見える。

そこは、俺の住処から歩いて行ける距離にある、稀な現場だった。

だが、直線距離で2キロをわずかに超えるその道のりを、俺はあえて電車賃として経費に計上する。微々たる額だが、これもまた「生存戦略」のひとつだ。「まあ、いいやね。みんなそうしてるし」と心の中で小さく嘯(うそぶ)きながら、俺はアスファルトを踏みしめる。

現場到着は、開始30分前。

すでに到着していた工事車両の運転席へ、挨拶のために歩み寄る。

「おはようございます!よろしくお願いします」

発した声は、寒風に霧散した。

返事はない。一瞥すら、ない。

「挨拶ぐらいしろよ。せめて会釈くらいは」という苛立ちが、喉元までせり上がる。しかし、すぐさまそれを冷徹な客観性が押し戻す。

「新人警備員じゃなかったら、こういう態度は取られんわな」

経験3ヶ月。この世界では、俺はまだ透明な存在に過ぎない。今はただ、現場という名の戦場をこなし、経験値を積み上げ、警備員としての「風格」という名の鎧を纏う準備期間だと思っている。

この日の任務は、下水道工事に伴う車両通行止め。住宅街の路地で迂回を促す、いわゆる「楽な仕事」だ。

看板の横に立ち、車両が来れば手旗を振る。道を聞かれれば、愛想良く迂回経路を告げる。それだけの反復。

朝9時に始まった工事は、午後3時には呆気なく幕を閉じた。

20分の休憩を2回、昼休みは40分、そして一服とトイレのための最後の休憩。実質4時間半ほどの労働で、俺の手元には一万円強の日当と、あの交通費が残る。金額の詳細を語ると会社が知れてしまうので、それは伏せておく。

ふと、相勤者のY氏に問いかけてみた。

「暇な現場の時、何考えてるの?」

Y氏は、マスクの奥から答えた。その目は面倒くさがってなどいない。彼は敵ではない、と俺は直感的に悟る。

「就活してるから、そのことかな。この業界、稼ごうと思えばいくらでも稼げちゃうから。腰掛けのつもりがズルズルと……そんなやつを、俺はたくさん見てきたよ」

稼げる。その言葉の裏には、日勤の後に夜勤を繋ぐという、削り取られるような労働の蓄積がある。

実際、虚無に近い現場はある。先日などは、クレーン車の保安業務、つまり「一晩中、重機がいたずらされないように見張るだけ」という仕事に従事した。

「なんでこんなことをしているんだ……」 その問いが頭の中を巡る。だが、待つのが仕事なのだ。 何事も起きなければ、100点満点の仕事をしたことになる。この不思議な、静寂を売る商売。頭の片すみで、「こんなんで稼いでもな…」という思いを拭いきれない。

Y氏は次の場所を探していた。では、俺は? この長く、白い「空白」の時間、俺は自らを再武装させるために次のように動いている。

1. 手揉み

手のひらには全身の縮図があるという。YouTubeで見つけた「ヘモグロビンA1cを下げるツボ」を、執拗に刺激する。これは、健康という名の資産を取り戻すための、俺なりの祈りだ。

2. エレベーター呼吸

脳内を駆け巡るネガティブなグルグル思考を断ち切るため、ネドジュン氏の著書『左脳さん、右脳さん。』で学んだ「エレベーター呼吸」を実践する。意識を思考から切り離し、内側の静寂へと沈めていく。

他のみんなは、この空白の中で何を飼っているのだろう。 明日、別の警備員にも聞いてみようと思う。

(追記)

後日、2交(交通誘導2級検定合格者)の70代の大先輩に聞いてみた。

「こんなんが良いよ」

と胸ポケットから取り出したのはコピーした何かの紙片。丁寧に折り畳んである。印刷された英語、中国語、日本語の文字。鉛筆で手書きの発音が書かれていた。

「暇な時は覚えてる。何回も反すうできるからね。」

その紙片は、単なる勉強の道具ではなかった。 それは、社会から、現場から、そして自分自身から「価値のない背景」として扱われることに抗うための、静かだが、勇敢な抵抗の証だった。 彼が反芻する言葉は、この現場で誰かに向けられることはないかもしれない。 それでも彼は、その紙片をいつも胸ポケットに入れ、自分がただの「制服を着た置物」に成り果ててしまわないように闘っているのだ。

老兵は死なず、か。

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この記事を書いた人

【絶望2号警備員 Shoku-Shoku-Shi】

58歳、新人2号警備員。米大卒、資産ゼロ、家族とは疎遠。 父の死に空を埋めた鳥の大群。その情景を胸に、今も路上に立っている。

行政書士、宅建士、指導教(4号)合格。 支配するのは、上200の血圧(白衣)と糖尿病の警鐘。 衰え、壊れ、緊張に怯える肉体と精神。

これは絶望の淵で己の「機嫌」を取り、呼吸する男の生存記録である。

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