八王子の夜勤現場が終わり、支給の防寒着を丸めてリュックに詰め込んだ。代わりに、底に押し込んでいた私服のダウンを引き出し、袖を通す。手早く着替えて駅へと急いだ。新宿行きの京王線、ロングシートの中ほど。隣にはこの現場の隊長、KOさんが座っている。
KOさんは交通誘導警備検定2級を持つ、この道のプロだ。制服を脱ぎ捨てた姿は、どこにでもいる穏やかな初老の男に過ぎない。だが、その隣に座る俺の体には、一晩中アスファルトの上に立ち続け、神経を尖らせていた独特の疲れが、逃げ場のない「澱」となって重く溜まっている。
沈黙に耐えかね、俺は会話の糸が途切れないよう、なかば無理やりに言葉を繋いだ。その流れで、ふとKOさんのプライベートな一面に触れたとき、彼はごく自然な調子で語り出した。
「実は私、音楽をやっていてね。以前、活動の関係でここらへんにも来たことがあるんだよ」
中学の部活(吹奏楽部)から始めて半世紀。ある楽器を専門に、今もアマチュア楽団の舞台に立ち続けているという。かつてオーケストラの演奏のために訪れたことのある地に、この夜はたまたま警備員として立っていた。その継続の歳月は、彼だけの揺るぎない背骨となっているようだった。
58歳。かつてのキャリアを脇に置き、慣れない交通誘導の現場に立つ自分。胸の奥に居座る得体の知れない重苦しさを抱えながら、俺は隣の隊長に、ふとした調子で聞いてみた。
「KOさん、この仕事を長く続けていらっしゃる方から見て、実際……どうですか?」
KOさんは、視線を向かい側の空席あたりに置いたまま、淡々と答えた。 「時間も融通が利くし、早く上がれる日もある。ペイも悪くない。俺みたいな『趣味人』には、これ以上ないベースキャンプだよ」
その言葉は、驚くほど潔く、理路整然としていた。彼はこの仕事を、守るべき「音楽」という聖域を支えるための補給基地として、完璧に割り切っている。だが、その正論を聞いても俺の胸の重りは軽くならなかった。むしろ、自分の中に守るべき「軸」さえ定まっていない現実を、鋭く突きつけられたような居心地の悪さが募る。
静かな走行音とともに、滑るように進む車内。俺は気になっていた「2級検定」についても、合格者である彼に尋ねてみた。 「やはり2、3年は現場をこなして、確固たる自信がついてから受けるものなんでしょうか?」
すると、KOさんはあっさり首を振った。 「いや、取りたかったら1年でもいいんだよ。警備員には現任教育が課せられているし、そこで成績が良ければ声もかかる。自分から『興味がある』と意思表示しちまえばいい。問題集はどこで買えますかなんて聞いてさ。まずは勉強先行だよ。検定を取れば、給料も上がるしね。」
還暦を目前にして、俺は無意識に「守り」の言い訳を探していたのだ。あと数年の経験が必要だという理屈は、結局のところ、新しい挑戦をして恥をかきたくないという臆病な防衛本能に過ぎない。
「勉強先行」という言葉は、確かに一つの指針ではある。だが、それを聞いたからといって視界が劇的に開けるわけではない。積極性が必要なのは痛いほどわかっている。それでも、今の自分を覆うこの「何かわけのわからない重さ」は、そんなに簡単に消えてはくれないのだ。
メルカリなどのフリマアプリで問題集を探すこと。社会保険を確保し、生活のセーフティネットを築くこと。それは生存戦略としては、ぐうの音も出ないほど「正しい」。だが、その正しさを一歩ずつ積み重ねるほどに、自分がどこか別の場所へ流されていくような、あるいは何かに絡め取られていくような、形容しがたい圧迫感が胃の腑に溜まっていく。
不意に、向かい側の窓から差し込む朝の光が強まった。その光は、容赦なく車内を、そして疲れ果てた俺の顔を照らし出す。
夜明けは、とっくに過ぎていた。
眩しさに目を細めても、体には夜勤の冷気と、自分自身の行く末に対する不透明な重苦しさが、冷たい膜のようにこびりついたままだった。
【補足解説:警備業法に基づく「現任教育」】
「現任教育」とは、警備業法第22条第1項により、すべての現役警備員に対して年度ごとに実施が義務付けられている法定教育です。
根拠条文: 警備業法第22条第1項、施行規則第38条
教育時間: 基本教育および業務別教育を合わせ、毎年度10時間以上

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