現場は品川の閑静な住宅街だった。高台に並ぶ邸宅の合間を、冬の湿った風が吹き抜ける。目の前を、ベンツやポルシェ、黒塗りのアルファードといった高級車が静かに通り過ぎていく。この高台に住まう者たちの豊かさと、地べたに立つ俺の現実。その鮮明すぎる対比が、冷たい風とともに肌を刺し、焦燥を煽る。
工事は、マンションの外壁補修に伴う足場設置。今日の俺の任務は、マンション前の道路で「一人片交」だ。

今日の相方、Mさんは75歳。この道3年。剣道の師範で、休日には子供たちに教えているという。「黒豆茶が好きでね」なんて話題も振ってくれる優しい人だ。
「タバコは吸うの?」
住民からの苦情を案じ、喫煙所を教えようとしてくれるその気遣い。
「いえ、コロナの時に後遺症がひどくて、それを機に止めました」
俺がそう答えると、Mさんは自分のことのように眉をひそめ、しかめっ面で同情してくれた。彼は新参者の俺に、現場で冬を凌ぐための「術」を気さくに伝授してくれる。
「電熱ベストは、ジャパネットたかたで買ったんだ。 ダンロップ製で一万数千円したよ」
Mさんが少し誇らしげに見せてくれたそのベストには、確かなブランドのロゴが光っていた。一方、俺の着ているのはTemuで買った、2,403円の安物。月とすっぽんだ。
Mさんは、冬の過酷な現場でいかに快適に過ごすか、その「攻略法」を語っている。だが、その話を聞けば聞くほど、俺の胸には冷たい水が溜まっていく。ここで生き延びるための知恵に精通するということは、この場所(2号警備)を「一生の居場所」として受け入れることと同義ではないのか。
「冬に指先が寒い時はね、ビニル手袋をしてから手袋、その上に白手をしたら良いよ」
そう続けるMさん。その親切が、今の俺には、底なし沼へと引き込む無邪気な誘いのように感じられた。
日本橋の下水道工事現場で、挨拶すら霧散させたあの相勤者の氷のような無反応を思い出す。それに比べれば、Mさんはあまりに「まとも」だった。だが、その「まともさ」こそが、今の俺を最も追い詰める。ここに適応してしまえば、あの無機質な男になるか、あるいはこの穏やかなMさんのように、この生活に馴染みきってしまうかのどちらかしかない。
仕事は、欠伸が出るほど単調だった。車が来れば誘導棒を振り、いなければただ、そこに立っている。思考を止めても時間は勝手に過ぎていき、その「空白」に、自分が少しずつ溶けていくのがわかる。
「もう少ししたら日給、上がるみたいだよ」
Mさんが、少しだけ嬉しそうに呟いた。その声には、この場所で生きる者の、平穏な充足感が漂っていた。
だが、その言葉は俺の胸に冷たい杭となって打ち込まれる。日給がわずかだが上がる。それは、ここが「逃げられない場所」になってしまうということではないのか。
「まともな相方」と「平穏な現場」、そこで手に入る「微々たる賃上げ」。それらは真綿のように俺を包み込み、気づけばMさんのように、この風景の一部として完全に同化していく未来が、すぐそこまで迫っているということなのだ。
Stay or not stay?
誘導棒を握る手の感覚が、冬の冷気で少しずつ麻痺していく。自分が何のために立っているのか、その目的すら冷気に溶けて、二度と思い出せなくなりそうだった。
焦燥感が、感覚の消えゆく指先を不自然に動かしていた。

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