【虚像】サボり(という名の精神的腐食)

昭和島からの夜景。ブリッジが見える。寒かった。

810kHz。 チューニングを合わせたラジオから流れてくるのは、湿り気のない、乾いたアメリカの風だ。 AFNから溢れ出すハイテンションなDJの英語と、最新のビルボードチャート。それを飽和して虚無に変わるまで聴き続けていた。誰にも悟られぬよう、イヤホンをネックウォーマーとイヤーマフの隙間に巧みに隠し、防寒着の内ポケットにはAMラジオを忍ばせていた。冬の屋外という、電波の感度だけが無駄に良いこの場所が、今の俺の世界のすべてだった。

横浜の某所で12時間という途方もない単独任務。だが、これは過酷ではない。ただ、そこに居るだけだ。 否、一分一秒という鋭利な刃物が心を刻む。だが、痛みはない。ただ、削られているだけだ。時間がただ通り過ぎるのを待つために。

「座って警備しても良いですよ」

現場の人間が吐いたその慈悲のような言葉が、逆に俺の自尊心を逆なでする。地べたに這いつくばるわけにもいかず、俺は念のためにリュックの底に沈めていた簡易パイプ椅子(ダイソー製品)を広げた。ガタつく椅子の脚が、俺の不安定な立場を象徴しているようだった。

「誰も来ないし」

その言葉が、俺の存在意義を根本から否定する。 誰も来ない。何も起きない。ならば、俺はなぜここに立っている? なぜここに生きている? この場所に必要なのは俺という人間ではなく、ただ「警備員がそこに居る」という形骸化した「プレゼンス」という名の虚像なのだ。

追い打ちをかけるように、明け方の空から冷たい雨が落ちてきた。 会社から支給——いや、給与から強制的に天引きされた「買い取り」のカッパを羽織る。防寒着の上から無理やり着込んだそれは、俺の身体をパッツパツに締め付けた。呼吸すら窮屈なこのビニールの鎧は、まるで俺を社会の底辺に閉じ込める檻のようだった。

「これ、仕事か……? 座って、ただ、雨に打たれて……糞どぉもんが……」

思考が霧散していく。 「休憩は適当に取って下さい。警備報告書のサインは代筆でお願いします」とは内勤の言。 そう、俺が、俺自身の名前を、あたかも他人の筆跡をなぞるかのように「代筆」するのだ。

カッパの中で蒸れる体温と、イヤホンから流れるAFNの熱量。この二つだけが、偽造された報告書の中に唯一存在する『真実』だった。リュックから出していたいかり豆の袋を閉じ、再び810kHzに意識を預ける。誰もいない、何も起きないこの場所で、見知らぬDJの英語だけが、俺がまだ死んでいないことを証明し続けていた。雨に打たれ、椅子に縛り付けられたこの滑稽な夜を、俺とラジオだけが共有している。それだけで、この『精神的腐食』をあと数時間は耐えられる気がした。

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この記事を書いた人

【絶望2号警備員 Shoku-Shoku-Shi】

58歳、新人2号警備員。米大卒、資産ゼロ、家族とは疎遠。 父の死に空を埋めた鳥の大群。その情景を胸に、今も路上に立っている。

行政書士、宅建士、指導教(4号)合格。 支配するのは、上200の血圧(白衣)と糖尿病の警鐘。 衰え、壊れ、緊張に怯える肉体と精神。

これは絶望の淵で己の「機嫌」を取り、呼吸する男の生存記録である。

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